「あの子には、ほかの社員より十分に払っていたはずなのに。」
退職した元社員から、弁護士名の書面が届きました。
書面には、在職中に社長から繰り返された性的な冗談、容姿への発言、必要以上に近い距離、肩や腰への接触、二人きりの食事への誘いが記されていました。
社長は納得できません。
「嫌なら、そのとき言えばよかっただろう」
「給料も上げた。特別手当も出した。高い店にも連れて行った」
「本人だって笑っていた。分かって受け取っていたはずだ」
そして、社長は顧問先へ電話をかけながら、思わずこう言ってしまいます。
「言ってみれば、セクハラ手当みたいなものを十分に払っていたんです。それなのに、なぜ訴えられるんですか?」
もちろん、給与明細に「セクハラ手当」と書かれていたわけではありません。
しかし、社長の中では、特別な給与、臨時手当、食事、贈り物、昇給が、いつの間にか「多少の言動を受け入れてもらう対価」に置き換わっていました。
問題は、元社員がどう受け止めていたかです。
笑っていたのではなく、笑うしかなかったのかもしれません。断れば評価や給与が下がると感じていたのかもしれません。生活のために給与を受け取りながら、毎日少しずつ退職の準備をしていたのかもしれません。
退職後に届いた一通は、社長個人の言動だけでなく、給与決定、評価、相談体制、社内の沈黙、会社の説明まで問う問題へ変わっていきます。
最初に「払っていた」と反論してはいけません
申告を受けた直後、社長が自分で元社員へ連絡し、「給料を上げたのに」「手当を返してほしい」「恩を仇で返すのか」と言えば、問題をさらに深くするおそれがあります。
給与や手当は、原則として労働の対価や会社が定めた処遇です。それを性的な言動への了解と結びつける説明は、会社側の認識を示す材料として受け止められる可能性があります。
まず、申告内容と会社側の事実認識を分けて整理します。
- 書面・メール・封筒をそのまま保存する:受領日時、送付者、要求、回答期限を確認します。
- 社長本人から直接連絡しない:謝罪や説明のつもりでも、圧力や口止めと受け取られることがあります。
- 給与と問題行動を別々に確認する:昇給、手当、賞与、評価の決定理由と、指摘された言動の日時・場所・内容を混ぜません。
- 関係記録を保全する:給与台帳、評価資料、メール、チャット、予定表、経費、会食記録、相談記録などを削除・修正せず残します。
- 社長以外の対応窓口を決める:申告対象が社長の場合、社長自身が調査と結論を独占しない体制を検討します。
- 必要に応じて専門家へ相談する:事実確認、回答、社内説明、再発防止を分けて整理します。
高い給与は、性的な言動への同意にはなりません
給与、賞与、手当、昇給、食事、贈り物を受け取ったことだけで、性的な言動に同意していたと判断できるわけではありません。
社員は生活のために働き、会社から給与を受け取ります。上司や社長との関係を壊せば、評価、配置、昇給、雇用に影響すると考えることもあります。
そのため、「その場で強く拒否しなかった」「笑っていた」「食事に来た」「お金を受け取った」という事情だけで、本人が自由な意思で受け入れていたと断定するのは危険です。
むしろ、社長が「特別に払っているのだから、そのくらい分かるだろう」と考えていた場合、給与や評価の権限と性的な言動が結びついて見えることがあります。
厚生労働省の指針では、職場における労働者の意に反する性的な言動や、それに対する対応によって労働条件上の不利益を受ける場合、または就業環境が害される場合をセクシュアルハラスメントの問題として整理しています。事業主には、相談体制や事実確認、適切な対応、再発防止など雇用管理上の措置が求められます。
もっとも、個別の言動がどのように評価されるか、損害賠償その他の責任が生じるかは、発言や接触の内容、頻度、関係性、本人の意思、前後の経緯、証拠、会社の対応など具体的事情によって異なります。
社長の一言が、会社の説明になってしまうことがあります
小さな会社では、社長の発言と会社の見解がほぼ同じものとして受け取られることがあります。
「あれだけ払ったのだから了解していた」
「嫌なら辞めればよかった」
「特別扱いしてやったのに訴えるのはおかしい」
こうした言葉がメール、チャット、面談記録、録音などに残れば、会社が申告をどう受け止めたか、給与や評価を何と結びつけていたかを説明する際に問題となる可能性があります。
さらに、元社員の名前や申告内容が社内で不用意に広がれば、プライバシーや二次被害の問題へ発展することがあります。社員が「相談しても社長に筒抜けになる」「次は自分の給与を下げられる」と感じれば、在職者の離職、採用、取引先、会社の信用にも影響します。
「セクハラ手当」という発想が示す、本当の経営リスク
手当を払ったから許されるのではありません。手当を払えば許されると思っていたこと自体が、会社のリスクになるのです。
給与は、沈黙を買うための代金ではありません。
特別扱いは、同意を確認したことにもなりません。
そして、会社のトップが当事者であれば、「相談窓口はある」「就業規則に書いてある」だけでは機能しないことがあります。誰が社長から独立して事実を確認し、誰が会社として判断し、誰が申告者へ連絡するのかまで決めておく必要があります。
経営者にとって怖いのは、悪気があったかどうかだけではありません。本人は好意や冗談、慰労のつもりでも、給与と権限を持つ立場からの言動が、相手には断りにくい圧力として積み重なることがあります。
3分チェック|給与と境界線を混同していませんか
□ 給与・手当・賞与の決定理由を文書で説明できる
□ 特定社員だけの処遇に客観的な基準がある
□ 経営者が「払っているから許される」と考えていない
□ 容姿、恋愛、結婚、性的な話題を職場で繰り返していない
□ 食事や私的な誘いを断っても評価へ影響しない
□ 身体への接触を親しさの表現として正当化していない
□ 社長自身が申告対象になった場合の外部相談先がある
□ 申告者のプライバシーを守る共有ルールがある
□ 給与台帳、評価資料、メール等の保存ルールがある
□ 申告後に減給、配置転換、退職圧力などと受け取られる対応を避けられる
一つでも説明できない項目があれば、問題が起きる前に整理する価値があります。
相談窓口
すでに元社員や代理人から申告・請求が届いている場合、給与や手当を理由に直接反論したり、返還を求めたり、社内で申告内容を広げたりする前に、労務・ハラスメント対応に詳しい弁護士や社会保険労務士など適切な専門家へご相談ください。
参考資料・最終確認
- 男女雇用機会均等法第11条(職場における性的な言動に起因する問題に関する雇用管理上の措置等)
- 厚生労働省「職場におけるハラスメントの防止のために」
- 厚生労働省「事業主が職場における性的な言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針」
最終確認日:2026年8月31日
本記事の物語は、会社経営で起こり得る労務リスクを説明するための架空の設定であり、特定の人物、会社、事件を題材としたものではありません。個別の言動の評価、責任の有無、必要な対応は、当事者の関係、言動の内容、頻度、前後の経緯、証拠、会社の体制等によって異なります。本記事は個別案件の法的判断を示すものではありません。
ご確認ください
本ページは、法人・医療機関等の経営リスクを考えるための一般的な情報です。個別の事案における責任の有無や必要な対応は、具体的な状況によって異なります。実際の個別判断については、関係機関または適切な専門家へご確認ください。
相談窓口では、現在気になっているリスクや、平時に確認したい事項を整理します。特定の商品を勧めるものではありません。


