「未払いの社会保険料について、○月○日までに全額を振り込んでください」
会社としては、長期間立て替えてきた本人負担分を精算するため、通常の事務連絡をしたつもりでした。
ところが数日後、休職中の社員の家族から連絡が入ります。
「請求書を受け取ってから本人の状態が悪化した」
「療養中なのに、会社から支払いを迫られて精神的に追い詰められた」
「今後の連絡は代理人を通してほしい」
その後、会社に届いたのは、本人が加入したユニオンからの団体交渉申入書でした。さらに弁護士から、「会社の請求によって症状が悪化した」として、安全配慮義務違反と損害賠償を主張する通知が届きます。
始まりは、社会保険料の精算をお願いする一通の文書でした。
請求額が正しくても、初動を誤れば、争点はいつの間にか「未払い金の回収」から「会社が療養中の社員を追い詰めたか」へ移ります。担当者の言葉、連絡回数、期限設定、社内記録の有無が検証され、団体交渉、労働審判、損害賠償請求へ進む可能性があります。
会社には、社員を追い詰める意図などありません。それどころか、本人の生活を考え、社会保険料の本人負担分を何か月も立て替えてきたのです。それでも、請求の時期や伝え方によっては、別の労務リスクを生むことがあります。
社会保険料の本人負担分について会社が支払いを求めることと、メンタル不調で休職中の社員に対して、どのような方法で請求・連絡するかは別の問題です。
「請求できるのだから、どのような請求をしても問題ない」とも、「体調が悪い社員には一切請求できない」とも限りません。個別事情を確認しながら、会社の債権管理と本人への配慮を両立させる必要があります。
そして、最も大切なのは、個別の問題が起きてから対応を考えるのではなく、最初から問題が起きにくい仕組みを会社の中に作っておくことです。
※本記事は一般的な情報提供を目的としたもので、個別案件についての法的助言ではありません。実際の対応は、社会保険労務士・弁護士・産業医等にご相談ください。
休職して給与がなくても、社会保険料が直ちになくなるとは限らない
健康保険・厚生年金保険の保険料は、原則として事業主と被保険者がそれぞれ負担し、事業主が双方の分をまとめて納付します。日本年金機構も、被保険者が本人負担分を事業主へ現金で支払う場合を案内しています。
休職によって給与の支払いがなくなっても、被保険者資格が継続している限り、直ちに保険料負担がなくなるとは限りません。また、無給になったことだけを理由に標準報酬月額が当然に引き下げられるとは限らないため、会社には毎月の納付が発生し続けることがあります。
したがって、規程や本人との合意、具体的な計算内容などに基づき、会社が本人負担分の支払いを求めること自体が、直ちに違法になるわけではありません。ただし、請求額と計算期間、負担区分、徴収方法、規程上の根拠、従来の説明、時効や相殺などは個別に確認が必要です。
特に、復職後の給与から過去の立替額を一括控除するような処理は、会社の判断だけで進めず、賃金全額払いの原則や控除の根拠を含めて専門家に確認すべきです。
「請求する権利」と「請求の仕方」は分けて考える
労働契約法第5条は、使用者に対し、労働者が生命・身体等の安全を確保しながら働けるよう必要な配慮を求めています。「安全」には心身の健康も含まれます。一方、必要な配慮は一律ではなく、具体的な状況に応じて判断されます。
本人負担分の請求に根拠があっても、本人の状態が不安定であることを会社が把握していた、短い期限で突然一括請求した、電話やメールを繰り返した、雇用上の不利益を示唆した、内訳を説明しなかった、といった事情が重なると、対応の相当性をめぐる争いになり得ます。
会社が立替え続ければよい、では解決しない
本人への配慮は必要ですが、「刺激しないために請求しない」という判断を無期限に続けることにも問題があります。本人負担分が毎月5万円なら、1年間で60万円です。
- 立替金が累積し、回収可能性が低下する
- 退職時にまとめて問題が表面化する
- 担当者の異動により、請求漏れや計算間違いが発生する
- 社員ごとの取扱いが不統一になる
- 会社負担か立替えか、会計・労務上の整理が曖昧になる
- 長期間説明しなかったことで、本人との認識が食い違う
「請求するか、しないか」の二択ではありません。休職開始時から本人負担額を定期的に通知し、支払方法や猶予・分割の相談手順を明確にしておくことが、双方を守ります。
やってはいけない初動
1.いきなり全額・短期限で請求する
何か月分もの立替額を、事前説明なく「7日以内に全額支払ってください」と通知するのは避けましょう。まず金額、対象月、計算根拠、経緯を確認し、支払方法の相談余地を伝えます。
2.電話やメッセージを連続して送る
休職中は、連絡を読むことや返答すること自体が負担になる場合があります。会社側の窓口と連絡手段を一本化し、複数担当者が別々に接触しないようにします。
3.解雇・休職打切り・復職判断と結び付ける
社会保険料の支払いと、休職期間、復職可否、雇用継続の判断は、別の根拠と手続で検討すべき事項です。「払わなければ復職させない」などの表現は紛争を深刻化させかねません。
4.請求を放置し、退職時に一括精算する
請求を猶予する場合も、立替金が発生している事実と残高は、負担に配慮しながら定期的に共有することが望まれます。
5.病名や治療内容を必要以上に聞く
健康情報は慎重に取り扱い、必要な範囲、取得目的、共有範囲を明確にします。主治医と連携する場合も、原則として本人の同意を得た適切な手続が必要です。
望ましい請求・連絡方法
1.請求前に事実関係を確認する
- 対象となる保険料の種類、対象月、本人負担額
- 既に控除・入金された金額と立替残高
- これまで本人へ行った説明
- 就業規則・休職規程・個別合意
- 本人が希望する連絡手段と窓口
- 会社が把握する健康状態と配慮の申出
2.最初の連絡は「督促」より「確認と相談」にする
療養中のところ恐れ入ります。休職期間中の社会保険料のうち、本人負担分について会社が納付・立替えを行っているため、現時点の内訳をご案内します。直ちに全額のお支払いをお願いする趣旨ではありません。体調や生活状況も踏まえ、支払時期・分割方法、今後の連絡方法についてご相談できればと考えています。
実際の通知文は、本人の状況や会社の規程を踏まえて作成してください。
3.窓口・頻度・手段を一本化する
- 担当窓口を一人または一部署に限定する
- 本人が受け取りやすい方法を確認する
- 連絡頻度と、返答がない場合の次回連絡日を決める
- 家族や代理人への連絡は、本人の同意・権限関係を確認する
4.分割・猶予を検討し、書面化する
毎月一定額の分割払い、一定期間の猶予、復職後の支払計画などを検討します。合意した場合は対象額、支払日、方法、再協議の条件を書面にします。
5.健康面の配慮と債権管理を連携させる
産業医等には債権回収を任せるのではなく、会社からの連絡が健康状態に及ぼす影響や、望ましい連絡方法について必要な助言を求めます。
参考:厚生労働省「心の健康問題により休業した労働者の職場復帰支援の手引き」
休職規程に入れておきたい項目
- 休職中も被保険者資格が継続する場合があること
- 会社負担分と本人負担分
- 無給時の徴収方法、支払日、振込先
- 会社が立て替えた場合の取扱い
- 分割・猶予の相談窓口
- 定期連絡の担当者・頻度・方法
- 家族、代理人、主治医等と連携する場合の同意手続
- 復職・退職時に未精算額がある場合の取扱い
- 健康情報を取得・利用・保管する目的と範囲
規程の新設・変更時は、不利益変更、従業員への周知、既に休職中の社員への適用関係も確認します。
会社を守る記録
- 月別の本人負担額と立替残高
- 休職開始時に交付した説明書
- 本人が希望した連絡手段・頻度
- 本人、家族、代理人からの要望
- 会社が把握していた健康上の事情
- 連絡前に社内で検討した内容
- 通知書、送付日、電話記録
- 分割・猶予を提示した事実
- 専門家へ相談した内容
記録は本人を追及するためではありません。担当者が替わっても一貫した対応を行い、会社がどのような配慮を検討したか説明できる状態にするためです。
専門家へ相談すべきタイミング
社会保険労務士
計算や資格・標準報酬月額の取扱い、休職規程や徴収ルール、傷病手当金等を含む実務を整理したいとき。
弁護士
本人が法的責任を主張した、「請求で症状が悪化した」と言われた、診断書・内容証明・損害賠償請求が届いた、弁護士やユニオンから連絡があった、給与・退職金との相殺や休職期間満了等も問題になっているとき。
産業医・産業保健スタッフ
本人への連絡が健康状態に影響する可能性がある、連絡制限の申出がある、復職支援と金銭問題を並行して扱う必要があるとき。
3分でできる自社チェック
- □ 休職者ごとの本人負担額を月別に管理している
- □ 会社負担分と本人負担分を正確に区分できる
- □ 休職中の徴収方法を規程で定め、開始時に説明している
- □ 立替残高を定期的に案内している
- □ 連絡窓口を一本化し、本人が希望する手段・頻度を確認している
- □ 分割・猶予の相談手順がある
- □ 督促と復職・退職判断を安易に結び付けていない
- □ 健康情報の取得・共有を必要な範囲に限定している
- □ 社内の検討過程も記録している
- □ 専門家への相談基準がある
請求を止めるだけでも、強く請求するだけでも解決しない
問題になりやすいのは、休職開始時の説明や社内ルールがないまま立替額を積み上げ、会社が限界を迎えた時点で突然強い請求を始めるケースです。
発生額を毎月管理する、早い段階で説明する、支払方法を相談できるようにする、連絡窓口と頻度を決める、配慮の検討経緯を記録する。そして、紛争の兆候が出る前に専門家へ相談する。この仕組みが、社員の療養を妨げず、会社の立替負担と法的リスクを抑える現実的な対応です。
文書を送ってから言葉を取り消すことはできません。担当者が何度も連絡した記録も、後からなかったことにはできません。だからこそ、請求額が大きくなる前、本人との認識が対立する前、代理人やユニオンから通知が届く前の対応が重要です。
また、請求方法をきっかけに本人がユニオンへ加入し、団体交渉を申し入れる展開も考えられます。
同じ問題を起こさないために――法人リスクダムの事前対策相談
すでに本人から抗議を受けている、代理人から通知が届いている、団体交渉を申し入れられているなど、個別案件への対応が必要な場合は、弁護士、社会保険労務士、産業医等の専門家へご相談ください。
法人リスクダムの相談窓口は、発生したトラブルの交渉や法的判断を行う窓口ではありません。
私たちが一緒に整理したいのは、今回のような問題が起きないように、平時から会社にどのような仕組みを作っておくかです。
- 休職開始時に何を、どの順番で説明するか
- 社会保険料の本人負担分をどのように管理・通知するか
- 連絡窓口、連絡手段、連絡頻度をどう決めるか
- 分割払いや猶予の相談手順をどう整えるか
- 健康情報を誰が、どの範囲で取り扱うか
- どの段階で社会保険労務士、弁護士、産業医等につなぐか
- 担当者が替わっても同じ対応ができるよう、何を記録するか
個別の社員に対する「今回の請求をどうするか」は専門家へ。法人リスクダムでは、「次に同じことが起きない会社にするにはどうするか」を、経営者と一緒に整理します。
ご相談の際は、現在の就業規則・休職規程、休職開始時の案内書、社会保険料の徴収ルール、社内の連絡・記録方法などをご準備ください。
問題が起きてから対応するのではなく、問題が起きにくい運用を平時から作る。法人リスクダムは、そのための事前対策相談窓口です。
ご確認ください
本ページは、法人・医療機関等の経営リスクを考えるための一般的な情報です。個別の事故における責任の有無や必要な対応は、具体的な状況によって異なります。実際の事故や個別の判断については、関係機関または適切な専門家へご確認ください。
相談窓口では、現在気になっているリスクや、平時に確認したい事項を整理します。


