「大腸がんでした。人工肛門になりました」
従業員は、社長の前に立つと、感情を抑えた声でそう報告しました。
復職面談で、彼は人工肛門の袋をぶら下げていました。
「先生から、去年も一昨年も、健康診断で便潜血の『要精密検査』だったんじゃないかと言われました」
「会社から、再検査を受けるように言われなかったのか、とも聞かれました」
「会社の健康管理について、一度、専門家に相談してみてはと言われました」
「……今後どうするかは、今、考えています」
声を荒らげたわけではありません。責め立てたわけでもありません。
だからこそ、その言葉は社長の胸に残りました。
社長の頭に浮かんだのは、毎年届く健康診断の結果票でした。
「健康診断は毎年受けさせていた。それで終わりじゃないのか?」
これまで社長は、仕事中のけがなら会社の問題だが、病気は本人の問題だと思っていました。病院へ行くかどうかも、治療を受けるかどうかも、最後は本人が決めることだ、と。
しかし今、初めて思います。
「去年と一昨年の結果に『要精密検査』と書かれていたとき、会社は何をしていた?」
このケースで会社の責任が認められるかは別問題です
ここは、慎重に分けて考えなければなりません。
このケースで会社の責任が認められるかは別問題です。
便潜血検査で要精密検査となった従業員が受診せず、その後に大腸がんが見つかったからといって、会社の損害賠償責任が当然に成立するわけではありません。
会社がどの情報を把握していたのか。どのような対応をしたのか。本人が受診しなかった経緯はどうだったのか。会社の対応と病状の進行との間にどのような関係があるのか。実際の責任は、こうした事情を踏まえて個別に判断されます。
また、大腸がんになったこと自体が、直ちに労災になるわけでもありません。労災認定には、業務と疾病との相当因果関係が必要です。
ただし、だからといって、会社は健康診断を受けさせるだけでよい、という話でもありません。
健康診断には「その後」があります
労働安全衛生法は、事業者に健康診断の実施を求めるだけでなく、その結果について事後措置の仕組みを定めています。
健康診断の項目に異常の所見があると診断された労働者について、事業者は、その労働者の健康を保持するために必要な措置について、医師または歯科医師の意見を聴かなければなりません。法令上、意見聴取は健康診断が行われた日から3か月以内に行うものとされています。
ここでいう医師等の意見は、通常勤務でよいのか、就業を制限する必要があるのか、休業が必要なのか。制限が必要なら、どのような内容が適切なのか。会社が就業上の判断をするための医学的な意見です。
医師等の意見を勘案して必要があると認めるときは、会社は、就業場所の変更、作業の転換、労働時間の短縮、深夜業の回数の減少など、適切な措置を検討・実施することになります。作業環境の測定や施設・設備の改善などが必要になる場合もあります。
異常所見があれば自動的に配置転換する、という意味ではありません。病名や判定記号だけで決めず、本人の健康状態、業務内容、労働時間、作業環境、医師等の意見を踏まえて個別に判断することが大切です。
「再検査を受けさせる義務」と単純化しない
今回のような場面では、「会社には再検査を強制する義務があるのか」という疑問が生じます。
しかし、健康診断後の会社の義務を、「本人を必ず再検査へ連れて行く義務」と単純化するのは正確ではありません。
厚生労働省の指針は、再検査や精密検査が必要とされた労働者に対して、医師等の意見も踏まえて受診を勧奨すること、また、二次健康診断等を受診した労働者には、その結果を会社へ提出するよう働きかけることが適当だとしています。
会社として重要なのは、結果票を渡して終わりにせず、少なくとも次の流れをつくっておくことです。
- 異常の所見があると診断された従業員を把握する
- 必要な就業上の措置について、期限内に医師等の意見を聴く
- 再検査・精密検査が必要とされた場合は、受診勧奨を行う
- 本人の健康状態と業務の実情を踏まえ、必要な就業上の措置を検討する
- 対応内容と経過を、必要な範囲で記録する
受診勧奨をしても、本人が受診をためらうことはあります。その場合も、伝えた事実だけで終わらせず、産業医等と相談しながら、再度の勧奨や就業上の配慮が必要かを検討できる運用が望まれます。
会社が把握するのは、病気のすべてではありません
健診後のフォローは、会社が従業員の病歴や治療内容を細かく聞き出すことではありません。
健康情報は、特に慎重な取扱いが必要な情報です。会社は、健康確保や就業上の措置に必要な範囲で情報を取り扱い、閲覧できる人や利用目的を明確にする必要があります。
会社が知りたいことは、病気のすべてではなく、その従業員が現在の業務を安全に続けられるか、どのような配慮が必要かです。
治療の判断は医療の領域です。会社が担うのは、把握した健診結果を放置せず、医学的な意見を得て、必要な受診勧奨と就業上の判断につなげることです。
小さな会社でも、止めてよい話ではありません
産業医の選任義務がない小規模事業場でも、健診後の意見聴取が不要になるわけではありません。
社内に産業医がいない場合は、健康診断を実施した医療機関に相談する方法があります。また、常時50人未満の労働者を使用する事業場は、地域産業保健センターの相談窓口を利用できる場合があります。
担当者を決め、異常所見者の確認、医師等への意見聴取、本人への連絡、必要な措置の検討、記録までを一つの流れにしておく。まずはそこからです。
3分経営リスクチェック|健診結果をファイルへ戻す前に
□ 異常の所見がある従業員を、会社として把握している
□ 医師等の意見聴取を、健康診断後3か月以内に行う手順がある
□ 医師等へ、本人の労働時間・作業内容・作業環境を伝えられる
□ 要再検査・要精密検査の従業員へ、受診を勧める担当者が決まっている
□ 医師等の意見を踏まえ、就業場所・作業・労働時間などの措置を検討している
□ 対応した日時と内容を記録している
□ 健康情報を閲覧できる人と利用目的を限定している
社長は、従業員が部屋を出た後も、しばらく席を立てませんでした。
健康診断は、毎年受けさせていた。
結果票も、会社に残っていた。
それなのに、その先を誰が確認するのかは決まっていなかった。
健康診断を「受けさせた」で終わらせていませんか。
異常所見が出た社員について、その後を会社としてどこまで把握していますか。
※本記事の場面は、経営上の論点を分かりやすく示すための架空事例です。本記事は一般的な情報であり、会社の法的責任、労災該当性、個別の就業措置を断定するものではありません。実際の対応は、事実関係や業務内容に応じて、医師・産業医、労働局、社会保険労務士、弁護士などの適切な専門家・関係機関へご確認ください。
【主な公的根拠】
e-Gov法令検索「労働安全衛生法」第66条の4、第66条の5、第66条の7
e-Gov法令検索「労働安全衛生規則」第51条の2
厚生労働省「健康診断結果に基づき事業者が講ずべき措置に関する指針」
厚生労働省「職場における労働衛生対策」



