「先生、お世話になりました。
私、独立することにしました」
「そうか。頑張れよ」
「ありがとうございます」
「それで、どこでやるんだ?」
「ここから数百メートル先です」
「……え?」
独立すること自体は珍しくありません。
勤務医が経験を積み、自分の医院を持つ。
院長だって、いつかそんな日が来ることは考えていたかもしれません。
でも――
そこ?
患者さんの生活圏も重なる。
診療内容も重なる。
患者さんは、その先生の顔も名前も知っている。
そこで初めて、
「ちょっと待ってくれ」
となります。
そういえば、あの書類……
退職後の競業について、何か決めていただろうか。
雇用契約書?
就業規則?
院長になったときの確認書?
慌てて探し始める。
実際、美容外科の分院長兼医療法人の理事だった医師が退職し、勤務していたクリニックから直線距離で約2kmの場所で美容外科を開業したケースがあります。
その医師には、退職後1年間、一定の地域で競業しないという合意がありました。
大阪地裁は、元院長の立場、秘密情報へのアクセス、制限される期間や地域、報酬、独立支援制度などを踏まえ、このケースでは競業を制限する合意を有効と判断。
医療法人側は約1億6,120万円を請求し、そのうち2,200万円の損害賠償が認められました。
「近くで開業するな」と書けばいい?
そこも、そんなに簡単ではありません。
「退職したら、うちの近くでは開業禁止」
そう書いておけば必ず有効になる、という話ではありません。
どんな立場の人なのか。
何を守るための制限なのか。
期間はどれくらいか。
地域はどこまでか。
どんな待遇や代償措置があるのか。
こうした事情によって判断は変わります。
だからこそ、
「先生、どこで開業するの?」
「すぐそこです」
「え?」
となってから、昔の契約書をひっくり返す。
できれば、その順番にはしたくありません。
退職の話が出る前に、確認しておくことがあります。
※冒頭の「数百メートル先」は、経営リスクを分かりやすく伝えるための事例表現です。本文で紹介した裁判例では、開業場所は勤務先から直線距離で約2kmでした。
参考:大阪地方裁判所 2026年7月9日判決

